希望( ローマの信徒への手紙8:18−25)

金迅野 NCC書記誰でも「希望」という言葉にあるイメージを持つことができるのかもしれません。しかし、「希望ってなんですか?」と問う青年に出会ったことがあります。誰かがそう言わざるをえない社会が成り立っている。そのことはまぎれもない事実なのかもしれません。パウロは「希望」

「神の息」に生かされる(創世記2章7節)

矢萩 新一 NCC副議長「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)ある方に「最近、聖霊充満してる?」と問われたことがありました。半分冗談の挨拶の言葉だったと思うのですが、私たちの教会への問いでもあるように感じました

「永遠の命」に生きる(ヨハネによる福音書11章23〜26節)

渡部 信 NCC副議長今年は4月16日にイースターの日曜日を迎えました。主イエスが無実の罪にもかかわらず、十字架にかかり死に、3日目に墓よりよみがえられた聖書の記事は、「永遠の命」の証として私たちに宣べ伝えられています。若い頃は、聖書に書かれた「永遠の命」について十分に理解できませんでした。

苦難を通って生命へ(マタイによる福音書24章7〜8節)

小橋孝一 NCC議長十字架に向かいながらイエスは、ご自身の受難だけではなく、主に従う者たちを待ち受けている苦しみについても、お語りになった。戦争、飢饉、地震、不法がはびこり、愛が冷える。そして主への信仰に生きる者はあらゆる民に憎まれる。「しかしこれらは全て産みの苦しみの始まりである。

わたしたちは主のもの(ローマの信徒への手紙14章8節)

網中彰子 NCC総幹事「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマの信徒への手紙 14章8節)主の年2017年も皆さまの毎日が神さまの恵みに満ち溢れますようお祈りいたします。

自分が何をしているのか知らないのです。(ルカによる福音書23:34)

金迅野 NCC書記「されこうべ」(アラム語でグルゴルダ=ゴルゴダ)と呼ばれている場所で、十字架にかけられた瞬間に捧げられたイエスの祈りの言葉。十字架刑は当時ローマ帝国が重大な犯罪を犯した者に科した極刑であった。死刑執行が始まろうとするまさにその瞬間、通常、人が予想するのは、自らの罪

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