イエスは言われた。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」
(ヨハネによる福音書20:15)

イエスが十字架に架けられ、墓に葬られた。その週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。しかし、彼女が主の葬られた墓に辿りついた時、墓から石が取りのけてあり、中にはあるはずの主の体はなかった。マリアは墓の外に立って泣き続けた。彼女の中には、「なぜ」が溢れていた。「なぜ」、主の体さえもが取り去られてしまうのか。「なぜ」、主の体に油を塗ることさえも許されないのか。「なぜ」、神は、こんな不安と悲しみ、怖れをお与えになるのか、と。傍らには、いつの間にかイエスが立たれていた。主は言われた。「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。
彼女が打ち震えながら泣いているその理由は、すでに主ご自身が十分に知っておられた。主が「なぜ」とこう語りかけられたのは、彼女の涙の理由を知りたいからなどではない。あなたは、なぜ泣いているのか。私があなたの傍に今もいるのだから、何も恐れることはない。あなたはもう泣かなくてもいい。
主は、私たちの尽きることのない「なぜ」を取り上げられる。そして逆に、私たちに「なぜ」と問いかけられる。この時、「なぜ」を語るのは主のみであり、私たちは、神さまによって、息を与えられ、私たちの人生は主のみよって導かれていることに、あらためて気づかされる。
<あなたは、なぜ泣いているのか。私は必ずあなたと共にいる。だから、あなたはもう泣かなくていい>。
私たちは、その主の問いかけに、ただひたすらに、ただ一言、「アーメン」と答えて、主につき従うだけでいい。

西原廉太
(立教大学総長・日本聖公会中部教区主教)

TOP