金迅野 NCC書記
誰でも「希望」という言葉にあるイメージを持つことができるのかもしれません。しかし、「希望ってなんですか?」と問う青年に出会ったことがあります。誰かがそう言わざるをえない社会が成り立っている。そのことはまぎれもない事実なのかもしれません。パウロは「希望」を語ります。ところで、パウロが「うめきながら待っている」と語る「希望」とはどういう希望でしょうか。そして、「目に見えるものは希望ではない」とも語っています。それは、わたしたちが日々語る「希望」と同じものでしょうか。
パウロが語る「希望」とは、「神の子とされる」ことであるといいます。韓国語聖書(改訳ハングル、改訳改訂=新共同訳とも)では「養子」と訳されている箇所です。私たちは、「神の子」であるのではなくて、「神の子」であることがゆるされた存在です。ほんとうは直接的なつながりのない存在を「子」とされる「選び」の主語は、私たちではありません。「希望ってなんですか」とつぶやくあの青年も「選ばれている」。そのことを、いま、そのまま彼に伝えたとしても、言葉は虚しく空を切るにちがいありません。私たちがいま考えるべきことは、そのような人に、どのように「希望」を語るかということ。そのように思えてなりません。
在宅ホスピスというシステムを編み出し、多くの人に「希望」を伝えてきたあるお医者さんが、末期がんにおかされながら記した日記を見たことがあります。その日記の最後にはこう記されていました。「苦しみは十分味わった。あとは喜びに向かって進もう。喜びに向かって進もう」。最も希望を語りがたい時間のなかで紡がれた最後の「希望」のリフレインが胸をついてきます。自分の身体に刻まれた経験に即した言葉によって語る「希望」にこそ、力と恵みが宿るのだ。深い自戒を込めてそのように思います。