金 性 済 NCC総幹事
この聖書の本文から、人は復活の恵みをどのように味わい知るか、教えられます。
まず第一に、復活の恵みとは、ただ誰にでもあらわとなることではないということです。弟子たちは、十字架にかかられた主イエスの前から逃げ去り、聖書に記されたとおり、彼らは隠れるように部屋に閉じこもっていたのです。その部屋に漂っていたものとは何だったでしょうか。それは、悲しみであり、恐怖であり、主を見捨てて逃げて来たという自責の念であり、そして自分がこれから生きていく理由を見出せないという虚無感であっただろうと言えます。
ついに、主イエス・キリストの復活を、自分の人生の驚くべき恵みとして示されるのは、私たちが自分の現実の中で、あの弟子たちのようにさいなまれる現実が開かれる前の扉となるのです。人はその現実の中でもだえ苦しみながら、自分でそこから抜け出せずに苦しむほかないのです、復活の主が訪ねてくださるまでは。
第二に、そのように閉ざされた部屋から解放されるよう扉を開け放つ鍵とは、復活の主が私たち一人ひとりの心に「平和があるように」と語りかけてくださる福音、そう、喜びの知らせなのです。まず、私たちの、閉ざされ打ちひしがれる心に、福音が復活の主ご自身の御声として響かなければ何も始まらないのです。その主の御声の響きとは、まさに創世記1章3節の、闇と混とんの中に、「光あれ」と発せられた天地創造の神の最初の御声と同じなのです。
第三に、閉ざされていた私たちの心に響き渡る、主の平和とは、私たちを主の平和のために遣わす前進命令となります。それまで閉ざされていた思い、そして生き方から、主に導かれ、主と共に、主のご用のために自分が用いられる喜びに満たされながら、私たちはその時から、「主に遣わされる人生」に旅立つようになるのです。
これらすべてのことが私たちの身に起こること。それが主イエス・キリストの復活の恵みにあずかることです。ローマ帝国の皇帝礼拝が広がる闇の時代の中で、初代キリスト教会はそのように、悲しみも恐れも超えて、復活の主の平和に満たされ、力強く福音を宣べ伝え、証ししながら主の平和のために働くものとされて行きました。
今この時代、この国において、私たちの部屋にも、主の平和の福音が響きますように…。