議長 吉髙 叶
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(マタイ福音書28:5-6)
新コロナに閉ざされた中で二度目のイースターを迎えました。一年以上に及ぶ新コロナの霧の中で、これまで大切に培ってきたものが次々と崩れてしまった、そんな「結局」をいくつも味わいました。自分が地道に積み上げてきたものが破れてしまうという「結局」を味わい、打ちのめされている方々がたくさんおられます。
ミャンマー民衆の血の叫びが響く中でイースターを迎えました。この十数年、苦しみながら立ち上がり、ようやくかたちにしてきた民主主義が一気に踏み潰され、破壊されようとしている、そのような「結局」をミャンマーの民衆は味わわされようとしています。
わたしたちの苦しい「結局」、あの人々の悲しい「結局」が、人間の「結局」なのでしょうか。いいえ、わたしたちは信じたいです、決してそれが「結局」では無いのだ、と。全てが空しいとしか思えない場所に、復活の主は起き上がり、立ち上がり、墓を背にして先立ち歩まれていることを。ミャンマーにあって「これが結局では無い」「これを結局にしてはならない」、そう信じてCDM(非暴力不服従)の道を進みゆく民衆に、必ず復活の主イエスの光が注がれることを。すべての人々の人生の真実として、「闇は光に勝つことができず、命は墓に閉じ込めることができず、死は命にのみ込まれてしまったのだ」と、女性たちが墓の前で聞かされたあの朝の響きを、今日、私たちは聴かされているのだと。