「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマの信徒への手紙14章8節)
キリスト以前・以後。西暦だけではなく、洗礼を受けて信仰者となっても、神さまにより頼むことをせず、自分を含めた人を頼りにするならば、それはキリスト以前に戻るかのような状態と言えるかもしれません。洗礼以前に戻ることはありませんが、使徒パウロの時代、古い習慣が抜けない信仰者もいたのです。14章1節「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。」偶像に備えられた肉を食べない信仰者を、食べても何の問題もないのにと批判する信仰者がいました。偶像に備えられた肉というのは今では想像しづらいことですが、もう手放してもよい過去にとらわれて、今を喜びの内に生きることが困難であるならば、今一度信仰とは何を生かしているのか確認したいものです。
神さまは揺れ動く信仰者をも既にご自分のものとしてくださっています。揺れ動くことも含めて「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とあるように、生も死も、命のすべてが造り主である神さまの御手の内にあることに気づかされます。他者や自分の幸せを祈り願い、しかしそうならない時があっても、どの瞬間も主のものである事実は心強く行く道の支えとなります。
日本基督教団 総幹事 網中彰子