金迅野 NCC書記
 
「されこうべ」(アラム語でグルゴルダ=ゴルゴダ)と呼ばれている場所で、十字架にかけられた瞬間に捧げられたイエスの祈りの言葉。十字架刑は当時ローマ帝国が重大な犯罪を犯した者に科した極刑であった。
死刑執行が始まろうとするまさにその瞬間、通常、人が予想するのは、自らの罪の許しを乞い、権力に命乞いをする死刑囚の姿ではないだろうか。しかし、イエスの祈りは、自分自身を十字架にかけようとする権力者とその煽動に乗せられてしまったデマゴギーが赦されることに向けられた。死を賭して語られたこの言葉は、ロッキングチェアの上で語られるうつろな「平和」のコトバとは異質なものだ。権力者の神経を逆撫でし続けた人間イエスの実践とその結果がそれを物語っている。メタノイア(転覆/回心)の思想は、このような形でも示されていたのではないか。

非暴力とは「無抵抗」のことではない、権力を行使して暴力を振るう者に異議申し立てを通して葛藤をもたらす勇気であると、マーティン・ルーサー・キングは語った。同胞に暗殺されたマルコムXは、暴力を振るう権力者に暴力で立ち向かうことを「知性」と名づけたが、生前、自身はいかなる暴力をも振るうことはなかった。ゴルゴダの丘で主に向けて放たれたイエスの祈りのループは、同時に、たとえば、この二人の「転覆/回心」の思想家が自らの生き方や自身の「犠牲」を通して示した非暴力の実践にも向けられていたのではないか。そして、そのループの補助線は、「小さくされた者」のうえに暴力が振るわれ続けている「いま、ここ」にも向けられているのではないか。

根源的な非暴力の声と身振りが、ゴルゴダの丘で示されたことの意味を改めて、あからさまな暴力が吹き出しつつある「いま、ここ」で胸に刻みたい。

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