梶浜 淳 NCC書記

 広島で育った人の「あるある」な体験
−平和記念資料館入口に立つ被爆直後の姿をした大人や子供の蝋人形の前で足がすくんだこと、
日赤広島原爆病院の前を一気に走り抜けたこと、
「ピカのことは思い出したくないけぇ、話したくないんよ」と祖父母や近所の人に言われること−。

73年前に原爆が落とされた町で、私は幼少期を過ごした。
こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』では、原爆投下から10年が過ぎた広島で主人公の平野皆実が言う。
「この街の人は不自然だ 誰も“あの事”を言わない
いまだにわけがわからないのだ
わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ
思われたのに生き延びているということ」

広島は明治以降、軍事都市として発展を遂げ、第二次世界大戦中は帝国海軍の拠点だった。戦艦「長門」や「大和」が造られたことで知られている呉市は、軍港として多くの兵隊がアジア諸国に出征した地でもある。広島の町に沈殿する重い空気を子供ながらに感じていた。核心に触れてはいけないものが確かにそこにあるのだが「子どもは知らんでえぇ」の一言で拒絶され、それが何なのか分からないでいた。

しかしこのセリフに衝撃を受け、重い空気の正体が理解できたような気がした。オバマ前米大統領の広島スピーチの冒頭のように「明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変した」ら、誰だっていまだにわけがわからない。「死ねばいい」と誰かに思われたことは到底受け入れられないが、それは紛れもない事実だった。その打ちのめされた体験を抱え人はどう生き延びるのだろう、どうやってまた他者との関係を回復していけばいいのだろう。

「回復」「再生」「不屈の精神」。そのような言葉で形容されてきた戦後の被爆地。しかし73年が経ってもなお、放射能の後遺症による身体の痛みと同じ、いやそれ以上の魂の痛みを抱えながら生きている人々がいる。「到底受け入れられないような出来事がなぜ自分に起こるのか。それでも自分が生きる意味はあるのか」。それは私たちキリスト者一人ひとりにも思い当たる痛みではないのか。

国連加盟122カ国が核兵器禁止条約に署名する中、核兵器廃絶を訴えるヒバクシャの平均年齢は80歳を超えた。被爆二世も健康診断を受け続けている。被爆三世と同じ世代の私は、彩りに満ちた日常や感情をある日突然奪われ失ったままに時間が降り積もったあの町の空気を思いながら、今年の夏も祈りを合わせた。

「主は打ち砕かれた心の人びとを癒し
その傷を包んでくださる。」(詩篇147篇3節)

「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復をもたらし、
彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。」(エレミヤ書33章6節)

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