(日本キリスト教協議会幹事 木谷英文)
最初に日本弁護士会名誉弁護士、続いて上智大学名誉教授ヨンバルトさんからの挨拶がありました。続いて高橋哲哉さん(東京大学教員)から、死刑を廃止へと導く「根拠」を探る必要性が話されました。その概要をご報告いたします。教会での分かち合い、祈りの中に加えていただければ幸いです。
挨拶
団藤先生(弁護士)
死刑は人間の判断で行われる以上、誤判の可能性はある。その誤判が死刑を確定された者にとっては、取り返しのつかない判断(生き直しを奪う)となるゆえに、決して許されるものではありません。人が人に対して行う判断である以上、死刑廃止を実現する取組みに関与することを決めました。また誰も他者を、また自分をも殺す権利は持ち合わせていません。
ヨンバルトさん(上智大学名誉教授)
死刑執行が、社会の正当防衛、または「国民」の意志に基づく行為というなら、その執行を公開しないことは矛盾しています。現行の死刑制度とその強制執行のありかたに、根本的な問いを持っています。
講演 高橋哲哉さん
死刑存置国74ヶ国に対し、あらゆる犯罪に対する死刑執行を廃止している国が85ヶ国となっている以上、「死刑は確実に廃止の方向に向かっている」と言えます。また死刑を廃止の方向に向かわせていくには、廃止の根拠を問いつづけることは極めて重要です。日本では、憲法第36条で、「公務員による残虐な刑罰、拷問は禁止」されていますが、これは廃止の根拠を裏付ける1つとなるかもしれません。
(以下は木谷の付加)
多くの教誨師からも聞かされることですが、死刑執行にあたらされる刑務官の心的苦痛は、その本人にずっと心的外傷として残っていく危険性はあります。その問題も廃止を考える上で無視できない現実であると言えるように思います。
今回の講演で、私が特に強調したい点は、死刑を執行される者は、「本人の肉体から魂が『確実』に抜け出てしまうこと」です。つまり「人間ではなくなる」ことの中にみる残虐性を心身共に背負わされることです。「執行が今日か?明日か?」と怯えながら生きる中で体験させられているのです。「刑の確定者は、一定時間後に、確実に「死」が訪れる心の苦しみに縛られながら生きている」という現実があるということです。
では死刑を宣告され、執行された者に対して、応報の権利を持つ者は誰か?を考えるとき、死刑確定者に被害を受けた者が、その被害を受けた分だけ、加害を与えた者に「生き直す」ことを徹底して求める権利はあると言えます。しかし被害者の遺族として生き残った者が、いくら苦痛と憎しみ、悲しみ、また怒りや恨みを加害者に対して持ったとしても、身内の被害者にかわって加害者に罰を与える権利はありえず、それを強制的に実行してしまうことは、新たな殺害行為となるのです。
今後加害者(死刑囚)と被害者遺族との関係の再生(作り直し)を考えるとき、また宗教者として死刑執行を停止する根拠を「赦し」という価値観に求めて問いつづけるとき、「赦す権利を持っているものは神のみ」であるとするならば、人は加害者の側にあっても、被害者の側に立たされても「赦しあう」関係をつくることのみが、命の造り主なる神に認められていることが、廃止の根拠にすあるはずだ、といえるのではないでしょうか。
(木谷の付加)被害者のみが被害を受けた分だけ、加害者の加害性を赦しうるなら、また加害者として死刑を宣告された者が「生き直す」ことを赦されるなら、死刑を廃止する宗教的根拠は、加害者と被害者とその遺族が「和解」の関係を創りだすことだけが神に許されているということだと思います。この信仰的価値観をもとに、死刑を廃止に向けて少しずつ歩みつづけていければ幸いです。「誰にも、神から生かすために委託されたいのちを殺す権利がない」ならば、「人は誰とでも赦しあう関係を創る機会は与えられている」。(Everybody has a permission for reconciliation with others.)