投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-10-31 (13 ヒット)

「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り 主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で 主の栄光があなたの上に現れる。」
(イザヤ書60章1−2節)

総幹事 網中彰子
教会の暦は、アドベント、主イエス・キリストの誕生を待ち望む待降節から新しい年として覚えます。
神さまがおられるのに、なぜいまだに悪があるのか。なぜ神は世を滅ぼさないのか。それは神さまが、すべての人の立ち帰り、つまり、神さまが初めに全く自由な愛の内に人を造られた、そんな愛の中に生きることを待っておられるという神さまの忍耐によるのです。その一人の救いを祈るのが教会です。
出張で中国の上空を飛んだ時、満天の星空を見ました。雲に遮られ、地上からは見えない光。星はその寿命を終えて、光だけが届いているものもあります。神さまは夜、たった独りの我が子を誕生させました。この幼子は十字架で、皆が持つ自己中心の罪を十字架上の死によって滅ぼすために生まれてきました。その主イエスは死から復活し、罪贖われたものを永遠のいのちへと新しく生かしてくださいます。
「闇が地を覆う」「暗黒が国々を包む」そんな状況はあります。けれども、それがすべてではありません。星がそうであるように、たとえその姿が様々な厳しい現実に遮られて見えず、分からないとしても、既に「あなたを照らす光は昇り」「あなたの上には主が輝き」。ここに希望があります。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-30 (92 ヒット)

          金迅野 NCC書記

誰でも「希望」という言葉にあるイメージを持つことができるのかもしれません。しかし、「希望ってなんですか?」と問う青年に出会ったことがあります。誰かがそう言わざるをえない社会が成り立っている。そのことはまぎれもない事実なのかもしれません。パウロは「希望」を語ります。ところで、パウロが「うめきながら待っている」と語る「希望」とはどういう希望でしょうか。そして、「目に見えるものは希望ではない」とも語っています。それは、わたしたちが日々語る「希望」と同じものでしょうか。
パウロが語る「希望」とは、「神の子とされる」ことであるといいます。韓国語聖書(改訳ハングル、改訳改訂=新共同訳とも)では「養子」と訳されている箇所です。私たちは、「神の子」であるのではなくて、「神の子」であることがゆるされた存在です。ほんとうは直接的なつながりのない存在を「子」とされる「選び」の主語は、私たちではありません。「希望ってなんですか」とつぶやくあの青年も「選ばれている」。そのことを、いま、そのまま彼に伝えたとしても、言葉は虚しく空を切るにちがいありません。私たちがいま考えるべきことは、そのような人に、どのように「希望」を語るかということ。そのように思えてなりません。
在宅ホスピスというシステムを編み出し、多くの人に「希望」を伝えてきたあるお医者さんが、末期がんにおかされながら記した日記を見たことがあります。その日記の最後にはこう記されていました。「苦しみは十分味わった。あとは喜びに向かって進もう。喜びに向かって進もう」。最も希望を語りがたい時間のなかで紡がれた最後の「希望」のリフレインが胸をついてきます。自分の身体に刻まれた経験に即した言葉によって語る「希望」にこそ、力と恵みが宿るのだ。深い自戒を込めてそのように思います。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-05 (111 ヒット)

                  矢萩 新一 NCC副議長
 
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)
 ある方に「最近、聖霊充満してる?」と問われたことがありました。半分冗談の挨拶の言葉だったと思うのですが、私たちの教会への問いでもあるように感じました。神さまの息によって生きる者とされている私たちですが、そのことを忘れ、自分の力だけで生きているように勘違いしてしまいます。心の電池というものがあるとするならば、その充電場所が私たちにとっては教会です。私たちの教会は、すべての人が神さまに愛されて生かされている存在として、安心して繋がり合うことのできる居場所となっているでしょうか。聖霊を充填して再び遣わされていく拠点となっているでしょうか。
教会の誕生日とされるペンテコステ・聖霊降臨日を迎えた私たちは、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」(汽灰12:13)者として、日曜日毎に集まってみ言葉に聴き、キリストの体につながっていることを再確認して、神さまの息である聖霊によって押し出され、それぞれの賜物を活かし合いながら、「父と子と聖霊のみ名によって」祝福を受けて社会へと派遣されます。
人と人とをつなぎ合わせる聖霊の働きに身をゆだねて帆を張り、互いの違いを認め合いながら変化を恐れずに、世の海原へと漕ぎ出していく者であり続けたいと思います。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-19 (173 ヒット)

渡部 信 NCC副議長

今年は4月16日にイースターの日曜日を迎えました。主イエスが無実の罪にもかかわらず、十字架にかかり死に、3日目に墓よりよみがえられた聖書の記事は、「永遠の命」の証として私たちに宣べ伝えられています。

若い頃は、聖書に書かれた「永遠の命」について十分に理解できませんでした。「神の子イエスはどうして預言者エリヤのように生きたまま昇天しないのだろう、どうして最後には十字架上で死んでしまうのだろう」という疑問が拭えませんでした。

しかし年月を重ねていくうちに、死んでも死なない「永遠の命」の存在を主イエスが証してくださったのだ、そしてこの「永遠の命」は、死んでから復活することだけではなく、この世でもイエスが神の子と信じる者に与えられる命だということが理解できるようになりました。

ヨハネ11章23-26節では、イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。それに対してイエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と問います。

肉体は必ず滅びます。しかし神の子イエスは「永遠の命」として肉体の死の力を打ち破りました。私たちがこの世でも死なない命によって生きる道を与えてくださったのです。ここに肉体の生を受けた私たちの信仰の生き方があるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-22 (165 ヒット)

小橋孝一 NCC議長

十字架に向かいながらイエスは、ご自身の受難だけではなく、主に従う者たちを待ち受けている苦しみについても、お語りになった。

戦争、飢饉、地震、不法がはびこり、愛が冷える。
そして主への信仰に生きる者はあらゆる民に憎まれる。

「しかしこれらは全て産みの苦しみの始まりである。」罪の世界が生命の世界へと生まれ変わるために通らなければならない「産みの苦しみ」なのだ。
だからどんなに悪い事態が予想されても「慌てないように気をつけなさい」。焦ったり、絶望したりしないで、「最後まで耐え忍ぶ」のだ。
「ただ我慢してやり過ごす」のではない。これらの苦しみを真正面から受け止め、落ち着いて備え、助け合いながら生命へと向かうのだ。

受難節から復活節に向かっている現在の私達も、ゝ会爾簔録漫↓敵対や戦争、E粗産て颪覆匹龍譴靴澆膨礁未靴討い襦
しかし焦らず、決して諦めず、一つ一つを真正面から受け止め、落ち着いて備え、助け合いながら一歩一歩進んでいこう。
私達が通って行く苦しみは、世界が復活するための産みの苦しみなのだから。


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