投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-05 (32 ヒット)

                  矢萩 新一 NCC副議長
 
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)
 ある方に「最近、聖霊充満してる?」と問われたことがありました。半分冗談の挨拶の言葉だったと思うのですが、私たちの教会への問いでもあるように感じました。神さまの息によって生きる者とされている私たちですが、そのことを忘れ、自分の力だけで生きているように勘違いしてしまいます。心の電池というものがあるとするならば、その充電場所が私たちにとっては教会です。私たちの教会は、すべての人が神さまに愛されて生かされている存在として、安心して繋がり合うことのできる居場所となっているでしょうか。聖霊を充填して再び遣わされていく拠点となっているでしょうか。
教会の誕生日とされるペンテコステ・聖霊降臨日を迎えた私たちは、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」(汽灰12:13)者として、日曜日毎に集まってみ言葉に聴き、キリストの体につながっていることを再確認して、神さまの息である聖霊によって押し出され、それぞれの賜物を活かし合いながら、「父と子と聖霊のみ名によって」祝福を受けて社会へと派遣されます。
人と人とをつなぎ合わせる聖霊の働きに身をゆだねて帆を張り、互いの違いを認め合いながら変化を恐れずに、世の海原へと漕ぎ出していく者であり続けたいと思います。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-19 (79 ヒット)

渡部 信 NCC副議長

今年は4月16日にイースターの日曜日を迎えました。主イエスが無実の罪にもかかわらず、十字架にかかり死に、3日目に墓よりよみがえられた聖書の記事は、「永遠の命」の証として私たちに宣べ伝えられています。

若い頃は、聖書に書かれた「永遠の命」について十分に理解できませんでした。「神の子イエスはどうして預言者エリヤのように生きたまま昇天しないのだろう、どうして最後には十字架上で死んでしまうのだろう」という疑問が拭えませんでした。

しかし年月を重ねていくうちに、死んでも死なない「永遠の命」の存在を主イエスが証してくださったのだ、そしてこの「永遠の命」は、死んでから復活することだけではなく、この世でもイエスが神の子と信じる者に与えられる命だということが理解できるようになりました。

ヨハネ11章23-26節では、イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。それに対してイエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と問います。

肉体は必ず滅びます。しかし神の子イエスは「永遠の命」として肉体の死の力を打ち破りました。私たちがこの世でも死なない命によって生きる道を与えてくださったのです。ここに肉体の生を受けた私たちの信仰の生き方があるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-22 (79 ヒット)

小橋孝一 NCC議長

十字架に向かいながらイエスは、ご自身の受難だけではなく、主に従う者たちを待ち受けている苦しみについても、お語りになった。

戦争、飢饉、地震、不法がはびこり、愛が冷える。
そして主への信仰に生きる者はあらゆる民に憎まれる。

「しかしこれらは全て産みの苦しみの始まりである。」罪の世界が生命の世界へと生まれ変わるために通らなければならない「産みの苦しみ」なのだ。
だからどんなに悪い事態が予想されても「慌てないように気をつけなさい」。焦ったり、絶望したりしないで、「最後まで耐え忍ぶ」のだ。
「ただ我慢してやり過ごす」のではない。これらの苦しみを真正面から受け止め、落ち着いて備え、助け合いながら生命へと向かうのだ。

受難節から復活節に向かっている現在の私達も、ゝ会爾簔録漫↓敵対や戦争、E粗産て颪覆匹龍譴靴澆膨礁未靴討い襦
しかし焦らず、決して諦めず、一つ一つを真正面から受け止め、落ち着いて備え、助け合いながら一歩一歩進んでいこう。
私達が通って行く苦しみは、世界が復活するための産みの苦しみなのだから。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-11 (107 ヒット)

網中彰子 NCC総幹事



 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
(ローマの信徒への手紙 148節)

主の年2017年も皆さまの毎日が神さまの恵みに満ち溢れますようお祈りいたします。

キリスト以前、以後、B.CA.Dと言う通り、イエスさまの誕生から全世界は新しく歩み始めました。クリスマスにまことの光として救い主をお迎えした喜びは、過去のものではなく、毎日与えられる喜びの原点です。

幼稚園の頃、くれよんで色鮮やかに一面を塗りたくり、その上から黒いくれよんで塗りつぶしてから、割り箸のようなもので表面をひっかく作品を作りました。夜空の花火のように闇に光が現れます。
アドベントとレントのいわゆる典礼色はどちらも紫。悔い改めをもって歩む時期とされています。けれども、悔いたまま、紫を黒に戻すようなことはないでしょうか。内省すること、悔いることは大切です。ただし、イエスさまは救い主として世に来られ、十字架の死をもって私たちの罪を滅ぼし、復活し、再臨の希望となりました。救われて以後、わたしたちは傷ついたとしても、そこには、先ほどの作品のように美しい色が現れます。主と共にいるという幸いを大いに味わう1年でありますよう、神さまの愛に気付く日々でありたいと願います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-17 (189 ヒット)

金迅野 NCC書記
 

「されこうべ」(アラム語でグルゴルダ=ゴルゴダ)と呼ばれている場所で、十字架にかけられた瞬間に捧げられたイエスの祈りの言葉。十字架刑は当時ローマ帝国が重大な犯罪を犯した者に科した極刑であった。
死刑執行が始まろうとするまさにその瞬間、通常、人が予想するのは、自らの罪の許しを乞い、権力に命乞いをする死刑囚の姿ではないだろうか。しかし、イエスの祈りは、自分自身を十字架にかけようとする権力者とその煽動に乗せられてしまったデマゴギーが赦されることに向けられた。死を賭して語られたこの言葉は、ロッキングチェアの上で語られるうつろな「平和」のコトバとは異質なものだ。権力者の神経を逆撫でし続けた人間イエスの実践とその結果がそれを物語っている。メタノイア(転覆/回心)の思想は、このような形でも示されていたのではないか。

非暴力とは「無抵抗」のことではない、権力を行使して暴力を振るう者に異議申し立てを通して葛藤をもたらす勇気であると、マーティン・ルーサー・キングは語った。同胞に暗殺されたマルコムXは、暴力を振るう権力者に暴力で立ち向かうことを「知性」と名づけたが、生前、自身はいかなる暴力をも振るうことはなかった。ゴルゴダの丘で主に向けて放たれたイエスの祈りのループは、同時に、たとえば、この二人の「転覆/回心」の思想家が自らの生き方や自身の「犠牲」を通して示した非暴力の実践にも向けられていたのではないか。そして、そのループの補助線は、「小さくされた者」のうえに暴力が振るわれ続けている「いま、ここ」にも向けられているのではないか。

根源的な非暴力の声と身振りが、ゴルゴダの丘で示されたことの意味を改めて、あからさまな暴力が吹き出しつつある「いま、ここ」で胸に刻みたい。


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