投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-22 (7 ヒット)

小橋孝一 NCC議長

十字架に向かいながらイエスは、ご自身の受難だけではなく、主に従う者たちを待ち受けている苦しみについても、お語りになった。

戦争、飢饉、地震、不法がはびこり、愛が冷える。
そして主への信仰に生きる者はあらゆる民に憎まれる。

「しかしこれらは全て産みの苦しみの始まりである。」罪の世界が生命の世界へと生まれ変わるために通らなければならない「産みの苦しみ」なのだ。
だからどんなに悪い事態が予想されても「慌てないように気をつけなさい」。焦ったり、絶望したりしないで、「最後まで耐え忍ぶ」のだ。
「ただ我慢してやり過ごす」のではない。これらの苦しみを真正面から受け止め、落ち着いて備え、助け合いながら生命へと向かうのだ。

受難節から復活節に向かっている現在の私達も、ゝ会爾簔録漫↓敵対や戦争、E粗産て颪覆匹龍譴靴澆膨礁未靴討い襦
しかし焦らず、決して諦めず、一つ一つを真正面から受け止め、落ち着いて備え、助け合いながら一歩一歩進んでいこう。
私達が通って行く苦しみは、世界が復活するための産みの苦しみなのだから。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-11 (47 ヒット)

網中彰子 NCC総幹事



 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
(ローマの信徒への手紙 148節)

主の年2017年も皆さまの毎日が神さまの恵みに満ち溢れますようお祈りいたします。

キリスト以前、以後、B.CA.Dと言う通り、イエスさまの誕生から全世界は新しく歩み始めました。クリスマスにまことの光として救い主をお迎えした喜びは、過去のものではなく、毎日与えられる喜びの原点です。

幼稚園の頃、くれよんで色鮮やかに一面を塗りたくり、その上から黒いくれよんで塗りつぶしてから、割り箸のようなもので表面をひっかく作品を作りました。夜空の花火のように闇に光が現れます。
アドベントとレントのいわゆる典礼色はどちらも紫。悔い改めをもって歩む時期とされています。けれども、悔いたまま、紫を黒に戻すようなことはないでしょうか。内省すること、悔いることは大切です。ただし、イエスさまは救い主として世に来られ、十字架の死をもって私たちの罪を滅ぼし、復活し、再臨の希望となりました。救われて以後、わたしたちは傷ついたとしても、そこには、先ほどの作品のように美しい色が現れます。主と共にいるという幸いを大いに味わう1年でありますよう、神さまの愛に気付く日々でありたいと願います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-10-17 (94 ヒット)

金迅野 NCC書記
 

「されこうべ」(アラム語でグルゴルダ=ゴルゴダ)と呼ばれている場所で、十字架にかけられた瞬間に捧げられたイエスの祈りの言葉。十字架刑は当時ローマ帝国が重大な犯罪を犯した者に科した極刑であった。
死刑執行が始まろうとするまさにその瞬間、通常、人が予想するのは、自らの罪の許しを乞い、権力に命乞いをする死刑囚の姿ではないだろうか。しかし、イエスの祈りは、自分自身を十字架にかけようとする権力者とその煽動に乗せられてしまったデマゴギーが赦されることに向けられた。死を賭して語られたこの言葉は、ロッキングチェアの上で語られるうつろな「平和」のコトバとは異質なものだ。権力者の神経を逆撫でし続けた人間イエスの実践とその結果がそれを物語っている。メタノイア(転覆/回心)の思想は、このような形でも示されていたのではないか。

非暴力とは「無抵抗」のことではない、権力を行使して暴力を振るう者に異議申し立てを通して葛藤をもたらす勇気であると、マーティン・ルーサー・キングは語った。同胞に暗殺されたマルコムXは、暴力を振るう権力者に暴力で立ち向かうことを「知性」と名づけたが、生前、自身はいかなる暴力をも振るうことはなかった。ゴルゴダの丘で主に向けて放たれたイエスの祈りのループは、同時に、たとえば、この二人の「転覆/回心」の思想家が自らの生き方や自身の「犠牲」を通して示した非暴力の実践にも向けられていたのではないか。そして、そのループの補助線は、「小さくされた者」のうえに暴力が振るわれ続けている「いま、ここ」にも向けられているのではないか。

根源的な非暴力の声と身振りが、ゴルゴダの丘で示されたことの意味を改めて、あからさまな暴力が吹き出しつつある「いま、ここ」で胸に刻みたい。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-06-07 (214 ヒット)

 矢萩新一 NCC副議長

つい先日、日本聖公会の総会で、ハンセン病回復者とご家族への謝罪声明と狭山事件の再審請求に関する要望書が決議されました。また6月5日の川崎でのヘイトデモを多くの人々が取り囲んで阻止しました。
人権とは「人間が人間らしく生きていくために社会によって認められている権利」、「人間が生存と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利」と説明されたりします。
神さまと人を愛することが私たちの勤めですが、その根拠は、神さまが私たち一人ひとりを愛し、大切にしてくださっているという確信です。それはすなわち、すべての人が、神さまと人びとから愛される権利があるということです。そして、神さまから愛される権利は、私たちが主張したり要求したりするものではなく、神さまからのお恵みとして一方的に与えられているものです。私たちに「福音」として与えられている、愛される権利・大切にされる権利が、「人権」ということではないでしょうか。
 教会の中で、人権や平和を語るとき、「教会の世俗化だ!社会派の考えを押しつけないでほしい、もっと福音を語ってほしい」という声が聞こえます。そんなとき、イエスさまの十字架は誰のためであったのか、それが徹底して他者のためであったことを思い起こします。そして、私たち一人ひとりが愛される権利を持っていること、神さまが愛されている人々と具体的に出会うことを大事にしていきたいと願います。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-11 (194 ヒット)

NCC副議長  渡部 信

4月6日、東京の妙智會教団本部を会場に、世界宗教者平和会議(WCRP)/Religion for Peace日本委員会主催の公開シンポジウムが開催され、筆者も出席した。ミャンマーの宗教者代表団10名を迎えた今回のテーマは 「他者と共に生きる喜びに向けた実践と課題」。主な顔ぶれは、2012年世界宗教者平和会議がミャンマーに設立された際に尽力した委員会関係者、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教の代表者であった。

ミャンマーでは1948年の建国以降、民族間の内戦、宗教対立が続いており、今回のシンポジウムでは貧困者への取り組み、宗教間の対話、民族間の和解、などが課題として議論された。軍事政権からアウン・サン・スー・チー氏率いる与党の国民民主連盟(NLD)による新政権誕生にまつわる話も披露され、日本側からも積極的なミャンマー支援の申し出が提案され、示唆に満ちた実り多い会議となった。

現ミャンマー連邦共和国の歴史は、ビルマへの植民地主義の時代から考えなければならない。英国による統治、華僑による実効的な経済支配、そして日本軍による侵略戦争。それ以後、対外的勢力から国の自治独立を守るために軍事政権による鎖国政策を行い、そこから更に民衆による民主化への戦いが始まった。2016年3月に文民大統領が誕生し、新政権へと交代したが、ここへ至るまでの長い道のりは、平和を愛し、忍耐深くその時を待った宗教者らの活動があっての成果だと感じた。筆者も何度となく、ミャンマーを訪れた。国の民主化には時間がかかったが、人口の10%まで達するキリスト教伝道に関して言えば、長きに軍事政権と併存しながら、地味で辛抱強く、民衆に深くに根づいた教育活動、青少年の育成、女性の地位向上などを通じて多大な貢献をしてきた様子が会議から伺えた。


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