投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-05-11 (213 ヒット)

NCC副議長  渡部 信

4月6日、東京の妙智會教団本部を会場に、世界宗教者平和会議(WCRP)/Religion for Peace日本委員会主催の公開シンポジウムが開催され、筆者も出席した。ミャンマーの宗教者代表団10名を迎えた今回のテーマは 「他者と共に生きる喜びに向けた実践と課題」。主な顔ぶれは、2012年世界宗教者平和会議がミャンマーに設立された際に尽力した委員会関係者、仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教の代表者であった。

ミャンマーでは1948年の建国以降、民族間の内戦、宗教対立が続いており、今回のシンポジウムでは貧困者への取り組み、宗教間の対話、民族間の和解、などが課題として議論された。軍事政権からアウン・サン・スー・チー氏率いる与党の国民民主連盟(NLD)による新政権誕生にまつわる話も披露され、日本側からも積極的なミャンマー支援の申し出が提案され、示唆に満ちた実り多い会議となった。

現ミャンマー連邦共和国の歴史は、ビルマへの植民地主義の時代から考えなければならない。英国による統治、華僑による実効的な経済支配、そして日本軍による侵略戦争。それ以後、対外的勢力から国の自治独立を守るために軍事政権による鎖国政策を行い、そこから更に民衆による民主化への戦いが始まった。2016年3月に文民大統領が誕生し、新政権へと交代したが、ここへ至るまでの長い道のりは、平和を愛し、忍耐深くその時を待った宗教者らの活動があっての成果だと感じた。筆者も何度となく、ミャンマーを訪れた。国の民主化には時間がかかったが、人口の10%まで達するキリスト教伝道に関して言えば、長きに軍事政権と併存しながら、地味で辛抱強く、民衆に深くに根づいた教育活動、青少年の育成、女性の地位向上などを通じて多大な貢献をしてきた様子が会議から伺えた。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-04-06 (233 ヒット)

                              NCC議長 小橋孝一

 

 イースターの信仰から新年度が始まりました。全てを滅ぼす死、どんな努力も歩みもそして命までも、全てを無にしてしまう死。

 しかしその死が最後には神に滅ぼされてしまう。そして死に滅ぼされた命が復活させられ、神の勝利に与る。これがイースターの信仰です。

 新年度が始まっても、閉塞感と危機がますます私たちを取り囲んできます。戦争(死)への歩みばかりが目につき、ともすれば心がなえてしまいます。

 だからこそ 「動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです。」

 小さな歩みでも主は用いて下さる。平和(命)への希望をもって一歩一歩、共に進みましょう。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-03-03 (365 ヒット)

                             NCC総幹事 網中彰子

第39総会期初年度最後の月となりました。受難節、レントにあって、私たちは信仰の原点に立ち帰り、悔い改めの時を歩んでいます。この聖句の直前、イエスさまは弟子たちにご自身が「苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と打ち明けます。べトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエスさまをいさめ始める。それに対するイエスさまの言葉が今月の聖句です。主は罪の贖いのために世に生まれ、十字架の道のりを行くのです。

主の復活がなければ、礼拝は墓参をしているようなものです。主は復活した。再臨の希望を抱き、主の日の礼拝を捧げています。十字架は主の復活により、もはや死刑道具ではなく、大いなる希望となりました。

心が苦しくなるような現実もあります。しかし、世を造り、愛する神さまに行く道を委ねる信仰により、闇を打ち破る主に従う幸いを思います。既に救われた喜びを感謝しつつ、新年度へ向かいたいと願います。

24節以降は今総会期の主題聖句です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 皆さまの祈りのお支えに感謝いたします。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2016-01-20 (682 ヒット)

伊藤剛士 NCC書記

情報化社会の発展に伴い、若者たちはその便利さの恩恵を受ける一方、様々な脅威にも晒されています。ニート・ひきこもりの若者は増え、ネットを使ったイジメは複雑・陰湿なものになっています。そして匿名のネット空間がヘイトスピーチの温床になっており、そこでキリスト教は「反日」「サヨク」とレッテルを張られ排他されようとしている現状は、もはや日本の青年伝道の観点からも看過できないでしょう。

私的な話で恐縮ですが、私はYMCAの学生寮の出身であり、また今も寮に住み込みで学生と関わりつつお手伝いをしています。人との関わりが避けられないこの寮生活で特に重視されているのは、聖書を土台とした開かれた対話です。毎日朝食前に聖書を輪読し、忌憚の無い活発な議論が行われています。

実は学生の大半が非キリスト者ですが、日々の寮生活の中で各々がお気に入りの聖句を見つけ、それが自己の思考や行動の核心に繋がった体験を彼らは語ってくれます。語弊があるかもしれませんが、信仰の有無に関わらず、彼らは聖書の御言葉を通し、自己と社会を真摯に見つめています。ここが、青年が若い日に主と「出会う」場になっていることは確かです。

「隣人とは」「平和とは」といった聖書からの問いは、国際化・情報化する現代社会において私たち若者に改めて問われているように思います。キリスト教学生寮はどこも小さき群れですが、そこから巣立つ若者たちが賜物を輝かせ「平和を作りだす人」として社会の中で用いられるよう祈りたいと思います。また、ここで主と出会った青年たちが、主を救い主と受け入れることができるよう、祈りたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-12-09 (291 ヒット)

金 迅野 NCC書記

イエスの誕生の知らせを告げられた羊飼いたちは「野宿」していたとあります(ルカによる福音書2:8)。さしずめ現代都市なら「路上生活者」ということになるでしょうか。彼らは差別される存在で、中世においては賤民とされたといいます。

ところで、なぜ、「天使=よき知らせ」が、真っ先に彼らのもとに到達したのでしょうか。それは、彼らが、自分たちを差別する人々の羊の「見張り」をしながら、このような辛い時代はいつか克服される、そういう時がいつか必ず来る、そう願って「見張り役」「歩哨」のように、誰よりもずっと切実に、「よき知らせ」を「待って」いたからではないでしょうか。だからこそ、「知らせ」は真っ先に彼らのもとにやってきたのではないでしょうか。

聖書の羊飼いたちのように、「路上」に、あるいは保護の「外」におかれている存在はいまも存在します。パレスティナ、イラク、アフガニスタン、シリア・・・・・・この地にも、明日を望む希望をいま手にしていない人々が多くいます。そして、「自己責任」という言葉に駆り立てられて走り続けた歩みをふと止めてみたとき、気がつけば、心の中の希望がかすんでしまっている・・・・・・私も、あなたも、そのように感じることはないでしょうか。

しかし、「ここに希望がない」からこそ、希望の到来をほんとうの意味で「待つ」ことができるとも言えないでしょうか。「ここに希望が欠けている」からこそ、神さまが「ここ」に「希望」をもたらしてくださることを信じて心底「待つ」ことができると。

私たちのまことの「羊飼い」、イエス・キリストを、聖書の「羊飼い」のように心から「待つ」ことができる私たちでありたいと思います。


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