投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-02-27 (510 ヒット)

平岡仁子 NCC書記  

ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤの信徒への手紙 3章28節)


元ドイツ大統領のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーが、1985年に行った演説は世界に感銘を与えました。そして、その演説の中には次のような言葉がありました。「若い人たちにお願いしたい。他の人々に対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。敵対するのではなく、互いに手を取り合って、生きていくことを学んでほしい。」人々が再び敵意と憎悪に駆り立てられることがないようにと30年前に語られたこの言葉は、昨今の世界の状況においてもまた、タイムリーな言葉と言えるのではないでしょうか。何故なら、世界は人々を敵意と憎悪に駆り立てようとしているかのように見えるからです。しかしここに、人間の敵意と憎悪に打ち勝った一つの道が示されます。「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
キリスト・イエスによる一致は、この世の敵意や憎悪に打ち勝った赦しと愛による一致です。この一致はこの世が作り出す様々な社会の格差や優位性を無意味なものとし、それらによって苦しむ人々に救いと慰めを与えるのです。そして洗礼は今、キリストと結ばれた私たちを一つとし、敵意や憎悪ではなく、世界が愛と赦しに生きるため、私たちを遣わします。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2015-01-08 (470 ヒット)

加藤 誠 NCC副議長

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイによる福音書10章28節)

 最近、「戦後七十年」を迎える日本を確実に覆い始めている「歪み」をいろいろな場面で感じます。例えば、札幌のH学園大学で講師を勤める元新聞記者に対する過剰で醜いバッシング。本人や家族、そして大学にまで脅迫や嫌がらせを繰り返す精神性の未熟さ。当初「大学の自治をおかす暴力に抵抗する」と表明していた大学も、三千件近い脅迫や嫌がらせの電話・メール対応のため、警備関連費用が二千万円を超えることとなり、「大学と学生を守るためには元記者の雇い止めを考えざるを得ない」という事態に追い込まれました。かつての「戦前」も、このようにして思想や宗教が弾圧され沈黙を強いられていったのかと暗澹たる気持ちにさせられます。幸いにも市民たちの「暴力に屈するな」との声に背中を押されて大学は雇用継続を決めましたが、今春の入試に悪影響が出ようものなら問題が再燃しかねない状況です。

 確実に今、私たちは「戦前」を歩んでいます。「戦争をしたい」人たちの言葉は巧みです。「世論」は一晩でひっくり返ります。この「戦前」において、キリスト教会は何に根ざし、何を語るのか。「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。何を恐れ、何を恐れてはならないのか。十字架を背負い、私たちの前を歩まれた方の背中から目を離さずに、その声を聴き続けていきたいと願います。

 

 


投稿者 : hiram 投稿日時: 2014-11-01 (463 ヒット)

 渡部 信 NCC 副議長  

 私は1カ月前に仕事でエルサレムを訪問し、再びイエスの足跡を辿る機会を得ました。1948年の建国以来、イスラエル国の首都エルサレムはユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、アルメニア教徒の暮らす4つの住居地に分割された複雑な街となっています。  イエスの時代も、エルサレムの街には祭司長グループの元にサドカイ人、ファリサイ人の分派があり、ローマ帝国の総督ピラトがおり、ヘロデが国を治めていました。現在と変わらない様々な利害関係の渦巻く複雑な街であったことは、ご存じの通りです。
イエスはどんな思いでこのエルサレムに入城されたのか、とふと考えました。複雑な人間同士の敵対関係を解消するために、その憎しみの感情を一手に身に負い受容なさるために選んだ道、それがドロローサの道です。  使徒パウロがエフェソの手紙2章で、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(16節)」と述べている通りです。 NCCの働きは、このみ言葉を土台にしています。「遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げしらせられました。(17節)」というメッセージを掲げながら、キリストにある同労者と共にこの福音を携え、歩んで行きたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-10-01 (420 ヒット)

網中彰子 NCC総幹事  

マルコ1:17を標語として与えられたNCC第38総会期の歩みも半年を切りました。あらためてこの聖句を共に味わいたいと願います。突然の主イエス・キリストによる招き。人の世界しか知らず、自分で自分を、そして他者をも救わねばならないという思いに、神さまは介入し、私たちを解放してくださいました。もちろん、他者への愛を忘れる訳ではありません。しかし、どんなに愛しても死が二人を別つ。その悲しみを癒すのは、天と地を結ぶ復活の主イエス・キリストしかいないのです。
「わたしのあとに来なさい」が原語の意味するところです。神さまの愛する世には、私たち人間の傲慢さによる争いがいまだあります。神はどこにいるのか、との嘆きもあります。けれども、既にすべての者の苦難を先取りして十字架で死んだ主は、復活し、再臨する約束のもと、人は生かされています。「わたしのあとに」。戦いは最前線におられる主がなさる。この安心。私たちは永遠の同伴者と共に平安のうちに歩むことが赦されています。 裁きあうことからも解放され、自己中心という罪人である気づきと主の憐みの内にまことの愛の豊かさを知らされ、幸いと恵みを数え感謝しましょう。


« 1 2 3 (4)