投稿者 : hiram 投稿日時: 2014-11-01 (414 ヒット)

 渡部 信 NCC 副議長  

 私は1カ月前に仕事でエルサレムを訪問し、再びイエスの足跡を辿る機会を得ました。1948年の建国以来、イスラエル国の首都エルサレムはユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、アルメニア教徒の暮らす4つの住居地に分割された複雑な街となっています。  イエスの時代も、エルサレムの街には祭司長グループの元にサドカイ人、ファリサイ人の分派があり、ローマ帝国の総督ピラトがおり、ヘロデが国を治めていました。現在と変わらない様々な利害関係の渦巻く複雑な街であったことは、ご存じの通りです。
イエスはどんな思いでこのエルサレムに入城されたのか、とふと考えました。複雑な人間同士の敵対関係を解消するために、その憎しみの感情を一手に身に負い受容なさるために選んだ道、それがドロローサの道です。  使徒パウロがエフェソの手紙2章で、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(16節)」と述べている通りです。 NCCの働きは、このみ言葉を土台にしています。「遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げしらせられました。(17節)」というメッセージを掲げながら、キリストにある同労者と共にこの福音を携え、歩んで行きたいと思います。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2014-10-01 (365 ヒット)

網中彰子 NCC総幹事  

マルコ1:17を標語として与えられたNCC第38総会期の歩みも半年を切りました。あらためてこの聖句を共に味わいたいと願います。突然の主イエス・キリストによる招き。人の世界しか知らず、自分で自分を、そして他者をも救わねばならないという思いに、神さまは介入し、私たちを解放してくださいました。もちろん、他者への愛を忘れる訳ではありません。しかし、どんなに愛しても死が二人を別つ。その悲しみを癒すのは、天と地を結ぶ復活の主イエス・キリストしかいないのです。
「わたしのあとに来なさい」が原語の意味するところです。神さまの愛する世には、私たち人間の傲慢さによる争いがいまだあります。神はどこにいるのか、との嘆きもあります。けれども、既にすべての者の苦難を先取りして十字架で死んだ主は、復活し、再臨する約束のもと、人は生かされています。「わたしのあとに」。戦いは最前線におられる主がなさる。この安心。私たちは永遠の同伴者と共に平安のうちに歩むことが赦されています。 裁きあうことからも解放され、自己中心という罪人である気づきと主の憐みの内にまことの愛の豊かさを知らされ、幸いと恵みを数え感謝しましょう。


« 1 2 3 (4)