投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-07-30 (16 ヒット)

          金迅野 NCC書記

誰でも「希望」という言葉にあるイメージを持つことができるのかもしれません。しかし、「希望ってなんですか?」と問う青年に出会ったことがあります。誰かがそう言わざるをえない社会が成り立っている。そのことはまぎれもない事実なのかもしれません。パウロは「希望」を語ります。ところで、パウロが「うめきながら待っている」と語る「希望」とはどういう希望でしょうか。そして、「目に見えるものは希望ではない」とも語っています。それは、わたしたちが日々語る「希望」と同じものでしょうか。
パウロが語る「希望」とは、「神の子とされる」ことであるといいます。韓国語聖書(改訳ハングル、改訳改訂=新共同訳とも)では「養子」と訳されている箇所です。私たちは、「神の子」であるのではなくて、「神の子」であることがゆるされた存在です。ほんとうは直接的なつながりのない存在を「子」とされる「選び」の主語は、私たちではありません。「希望ってなんですか」とつぶやくあの青年も「選ばれている」。そのことを、いま、そのまま彼に伝えたとしても、言葉は虚しく空を切るにちがいありません。私たちがいま考えるべきことは、そのような人に、どのように「希望」を語るかということ。そのように思えてなりません。
在宅ホスピスというシステムを編み出し、多くの人に「希望」を伝えてきたあるお医者さんが、末期がんにおかされながら記した日記を見たことがあります。その日記の最後にはこう記されていました。「苦しみは十分味わった。あとは喜びに向かって進もう。喜びに向かって進もう」。最も希望を語りがたい時間のなかで紡がれた最後の「希望」のリフレインが胸をついてきます。自分の身体に刻まれた経験に即した言葉によって語る「希望」にこそ、力と恵みが宿るのだ。深い自戒を込めてそのように思います。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-06-05 (53 ヒット)

                  矢萩 新一 NCC副議長
 
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)
 ある方に「最近、聖霊充満してる?」と問われたことがありました。半分冗談の挨拶の言葉だったと思うのですが、私たちの教会への問いでもあるように感じました。神さまの息によって生きる者とされている私たちですが、そのことを忘れ、自分の力だけで生きているように勘違いしてしまいます。心の電池というものがあるとするならば、その充電場所が私たちにとっては教会です。私たちの教会は、すべての人が神さまに愛されて生かされている存在として、安心して繋がり合うことのできる居場所となっているでしょうか。聖霊を充填して再び遣わされていく拠点となっているでしょうか。
教会の誕生日とされるペンテコステ・聖霊降臨日を迎えた私たちは、「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらった」(汽灰12:13)者として、日曜日毎に集まってみ言葉に聴き、キリストの体につながっていることを再確認して、神さまの息である聖霊によって押し出され、それぞれの賜物を活かし合いながら、「父と子と聖霊のみ名によって」祝福を受けて社会へと派遣されます。
人と人とをつなぎ合わせる聖霊の働きに身をゆだねて帆を張り、互いの違いを認め合いながら変化を恐れずに、世の海原へと漕ぎ出していく者であり続けたいと思います。
 


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-04-19 (101 ヒット)

渡部 信 NCC副議長

今年は4月16日にイースターの日曜日を迎えました。主イエスが無実の罪にもかかわらず、十字架にかかり死に、3日目に墓よりよみがえられた聖書の記事は、「永遠の命」の証として私たちに宣べ伝えられています。

若い頃は、聖書に書かれた「永遠の命」について十分に理解できませんでした。「神の子イエスはどうして預言者エリヤのように生きたまま昇天しないのだろう、どうして最後には十字架上で死んでしまうのだろう」という疑問が拭えませんでした。

しかし年月を重ねていくうちに、死んでも死なない「永遠の命」の存在を主イエスが証してくださったのだ、そしてこの「永遠の命」は、死んでから復活することだけではなく、この世でもイエスが神の子と信じる者に与えられる命だということが理解できるようになりました。

ヨハネ11章23-26節では、イエスが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。それに対してイエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と問います。

肉体は必ず滅びます。しかし神の子イエスは「永遠の命」として肉体の死の力を打ち破りました。私たちがこの世でも死なない命によって生きる道を与えてくださったのです。ここに肉体の生を受けた私たちの信仰の生き方があるのです。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-03-22 (98 ヒット)

小橋孝一 NCC議長

十字架に向かいながらイエスは、ご自身の受難だけではなく、主に従う者たちを待ち受けている苦しみについても、お語りになった。

戦争、飢饉、地震、不法がはびこり、愛が冷える。
そして主への信仰に生きる者はあらゆる民に憎まれる。

「しかしこれらは全て産みの苦しみの始まりである。」罪の世界が生命の世界へと生まれ変わるために通らなければならない「産みの苦しみ」なのだ。
だからどんなに悪い事態が予想されても「慌てないように気をつけなさい」。焦ったり、絶望したりしないで、「最後まで耐え忍ぶ」のだ。
「ただ我慢してやり過ごす」のではない。これらの苦しみを真正面から受け止め、落ち着いて備え、助け合いながら生命へと向かうのだ。

受難節から復活節に向かっている現在の私達も、ゝ会爾簔録漫↓敵対や戦争、E粗産て颪覆匹龍譴靴澆膨礁未靴討い襦
しかし焦らず、決して諦めず、一つ一つを真正面から受け止め、落ち着いて備え、助け合いながら一歩一歩進んでいこう。
私達が通って行く苦しみは、世界が復活するための産みの苦しみなのだから。


投稿者 : webmaster 投稿日時: 2017-01-11 (126 ヒット)

網中彰子 NCC総幹事



 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
(ローマの信徒への手紙 148節)

主の年2017年も皆さまの毎日が神さまの恵みに満ち溢れますようお祈りいたします。

キリスト以前、以後、B.CA.Dと言う通り、イエスさまの誕生から全世界は新しく歩み始めました。クリスマスにまことの光として救い主をお迎えした喜びは、過去のものではなく、毎日与えられる喜びの原点です。

幼稚園の頃、くれよんで色鮮やかに一面を塗りたくり、その上から黒いくれよんで塗りつぶしてから、割り箸のようなもので表面をひっかく作品を作りました。夜空の花火のように闇に光が現れます。
アドベントとレントのいわゆる典礼色はどちらも紫。悔い改めをもって歩む時期とされています。けれども、悔いたまま、紫を黒に戻すようなことはないでしょうか。内省すること、悔いることは大切です。ただし、イエスさまは救い主として世に来られ、十字架の死をもって私たちの罪を滅ぼし、復活し、再臨の希望となりました。救われて以後、わたしたちは傷ついたとしても、そこには、先ほどの作品のように美しい色が現れます。主と共にいるという幸いを大いに味わう1年でありますよう、神さまの愛に気付く日々でありたいと願います。


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