(真野玄範)
(1) ハシエンダ・ルイシータでの虐殺~農地改革と政治的殺害
(2) 先住民族、1995年鉱山法と政治的殺害
(3) 労働組合の弾圧と政治的殺害
(4) 国際的な関心の高まりとフィリピン政府の対応
(1) ハシエンダ・ルイシータでの虐殺~農地改革と政治的殺害
カラパタンによる分野別の被害者数を見ると、農地改革関係が突出して多く、408人が政治的殺害に遭っている(2001年1月~2006年12月)。
2004年11月16日、コラソン・アキノ元大統領の一族コファンコ家がルソン島中部のタルラックに所有するルイシータ大農園(ハシエンダ)で、ゲートを塞いでストライキを行っていた6000人の労働者とその家族に向かって、労働雇用省長官パトリシア・トーマスの命令で派遣された国家警察と国軍の混成隊1000人が無差別発砲をしながら襲撃し、催涙ガスによって窒息死した2歳と5歳の幼児を含む14人が殺害され(内7人は後日死亡)、181人が重軽傷を負う虐殺事件が発生した。
国家捜査局は、証言と弾丸の線条痕テストに基づいて国家警察のメンバー9人の訴追を勧告したが、国軍兵士は労働雇用省職員の目撃証言があったにもかかわらず罪を問われず、1年後には国家警察の内部調査の結果として9人の告訴も行われないことが決められた。
虐殺から3週間後の12月8日、上院と下院で証言した小作農組織の議長マルセリーノ・ベルトランが軍服の男に自宅前で射殺され、4ヶ月後の2005年3月13日には、ルイシータ大農園の労働者を支援していたフィリピン独立教会のウィリアム・タデナ司祭が殺害された。同じく支援者であったタルラック市議のアベラルド・ラデラ氏の暗殺に続き、虐殺事件後10人目の犠牲者であった。10月25日にはストライキで指導的役割を果たしてきたリック・ラモス氏が射殺された。地元警察は2人の国軍兵士を容疑者としたが、2人が逮捕されることはなかった。その後も関係者の殺害は続き、虐殺事件後に殺害の脅迫を受けるようになっていたフィリピン独立教会の元首座主教であったアルベルト・ラメント主教までもが、2006年10月3日に殺害された。
ルイシータ大農園はフィリピン随一の規模で(6000ha以上)、その労働者はスペインの植民地時代から代々土地を耕してきた人々である。客家のコファンコ家が1957年にスペインの会社から購入した。代金は政府の保障と融資で支払われ、10年後には農園に住む小作農たちに土地を分配することが条件とされた。しかし、コファンコ家は約束を守らず、1985年には法廷から約束の実行を命令されている。ところが「民衆革命」によって大統領となり、農地改革の遂行を期待されていたアキノ大統領は、土地分配の代わりに農園を企業化して株式を配る方式(SDO)を選択肢として認め、コファンコ家による実質的な所有継続を可能にし、フィリピン全体の農地改革の流れを著しく滞らせてしまったのである(コファンコは出身地のタルラックだけでなく、パラワン諸島、ネグロス、ミンダナオなどに、他にも広大な土地を所有している)。その後、「株主」への配当金支払いは不当に低くなるように計算された少額が払われただけであり、しかも農園の土地は「株主」の小作農たちの意見を聞くこともなくショッピングセンターやゴルフ場、そして工業団地にされ、既に半分近くが転用されてしまっている。ちなみに工業団地には日本企業のサンヨーが入り、後にアキノ元大統領が会長になっている。工業団地への転用はさらに進められる計画であり、政府もスービック、クラーク、タルラックを結ぶ高速道路建設を計画して、外国の企業と資本の呼び入れによる経済振興策に利用しようとしている。
この、いわばフィリピンの土地改革政策と経済振興策を象徴する位置にあるルイシータ大農園で、農地改革法の穴(SDO)を取り消し、土地を分配するよう求める激しい闘争が起こったために、ルイシータの農園主や他の大地主のみならず、政府がこのストライキに過敏に反応したのである。砂糖精製工場の労働組合にとっては1日当たり100ペソ(約220円)の賃上げ、小作農組織にとっては議長と副議長を含む327人の解雇取り消しが、主な要求であったのだが。トーマス労働雇用省長官は、「この抗争は国家の利益を明らかに害している」と言って国軍と国家警察の投入を正当化した。国軍および国家警察は、このルイシータ大農園の「大虐殺」はNPAの犯行であり、農園のストライキを全国的な反乱蜂起に発展させようとするフィリピン共産党の謀略事件であると「論証」し、その後の反乱鎮圧作戦でプロパガンダに用いている。(この「論証」はフィリピン国軍北ルソン指令部が発行した『三位一体の戦争』第3巻に書かれている。この本は、2005年7月に世界教会協議会の連帯訪問団の一員として調査に入った鈴木伶子NCC議長(当時)が国軍からプレゼントされたものである。)
なお、その後、農地改革省(DAR)は、2005年9月末にルイシータ大農園の株分配オプション(SDO)の無効化と農地改革法による土地再分配の対象とすることを勧告し、大統領直属の農地改革評議会(PARC)の認定委員会が、2005年12月20日、その勧告の採択を決議するという展開となった(Res.2005-32-01)。ルイシータ大農園は国に接収され、数十年間土地の権利書を所有していた農園労働者たちに分配されることになったのである!また、2005年12月8日には、1年以上も続いたストライキの末に、農園主側は砂糖精製工場と農園労働者の主な要求をのんだ合意書に調印した。しかし、コファンコ家の反攻も急で、2006年6月14日、最高裁から前記決議の実行中止命令を引き出し、今に至っている。
一連の経緯を見ると、ストライキの波及と激化を防ぐ宥和策、および大統領選挙不正疑惑の追及などアロヨ大統領批判を続けるコファンコ一族のアキノ元大統領への牽制策として、政治的駆け引きの一過程として、実現への意思はなく「SDOの無効化と土地再分配」勧告が採択されたのではないかと思われてならない。
(2) 先住民族、1995年鉱山法と政治的殺害
農地改革関連に次いで多くの政治的殺害の被害者を出しているのは先住民族で、カラパタンによると75人である(2001年1月~2006年12月)。フィリピン先住民族人権監視団(IPHRW-Philippines)は、同期間に先住民族で殺害が記録されたケースは97人であり(43人がミンダナオのLumad、14人が南タガログのDumagat/Remondado, Mangyan、34人がコルディリェラのIgorot、6人が中央ルソンのAeta)、少なくともこの中の17人は政治的動機による超法規的処刑の被害者であるとしている。
背景には、「全ての天然資源は国家によって所有される」とする憲法に基づき、1995年鉱山法によって先住民族が多く住んでいる土地の投げ売りが始まったことがある。鉱山開発は立ち退きを伴うため、生計手段を奪われ、環境破壊による健康被害が起きるだけでなく、文化・伝統の破壊にもなる。なお、先住民族の土地は都市から遠く離れているためか、事件が起きてもあまり報道されていない。
2005年7月に世界教会協議会の連帯訪問団の一員として私が訪ねたミンダナオ島カラガ州スリガオデルスルでのケースを紹介する。
カラガ州は森林資源と鉱物資源が豊かでありながら、フィリピンで最も貧しい地域の一つである。住民の多くが先住民族のマノボ族であり、農業を営み、山地に暮らしている。外から収奪の手が入ったのは1950年代で、米国系の木材業者が入ってきた。金、石炭、鉄、クロームなどが豊富で、現在、多くの開発が申請されている。
2005年4月1日、スリガオデルスルのハンアヤン村に、突然、58人の国軍兵士が現れた。翌々日、別の部隊の兵士59人が現れ、アンダップ峡谷に向かった。4月4日、国軍兵士が再び現れ、住民を捕まえ、近辺に新人民軍がいないかを尋問。村人3人を強制的に道案内として連れ去った。3人は部隊のキャンプに着くと解放され、家に帰ることを許された。これが前触れだった。
同月28日、兵士を満載した大型トラック11台が現れる。朝8時、3人の村人が兵士に捕まり、新人民軍のキャンプの所在地やメンバーを聞き出すのが目的の尋問が行われた。翌日も別の2人の村人が尋問を受けた。尋問は拷問を伴った。殴られ、蹴られ、着ていた服で縛られ、轡をされ、殺すぞと脅迫されながら、尋問される。「NPAはいるか」「いない」「犯罪者はいるか」「いない」「活発な組合はあるか」「ある」「活発な学校はあるか」「ある」「ならばNPAがいるに違いない」…。4月30日、朝10時頃、村人たちが畑仕事をしていると14人の兵士が現れ、男性と女性・子どもを分け、尋問が始まった。女性と子どもは銃を突きつけられ、生きたまま土に埋めるぞと脅迫された。我々は15人の村人から次々と証言を聞いたが、その中に土に10歳の男の子がいた。素手で自分の墓となる穴を掘らされ、その中に座らされ、ナイフを首に当てられ、「どうせ大きくなったらNPAになるのだから、今殺してやる」と脅されたという。重い口を開き、ポツリ、ポツリと小さな声で話してくれるのを聞きながら、訪問団のメンバーで涙を押さえられる者はいなかった。この子は今でも恐ろしくて畑に出られず、家に籠もる毎日だという。この数日間に理由もなく射殺された者が何人もおり、道案内として連れ去られて未だに行方不明の者(強制失踪)が4人いる。家族は地域の国軍駐屯地を訪ねまわって探しているが、未だに不明である。畑や家を焼かれて失った人、神経に異常を起こした人もいる。
5月3日、2機のヘリコプターが現れ、アンダップ峡谷周辺にマシンガンと爆撃の音が響き続けた。5月9日、村々の強制退去が始まった。合計316家族、2241人が山を降り、教会やカラパタンが避難所を作った。同月17日、地方議会、駐留部隊、教会の代表者、判事らが集まって、「平和と秩序を回復する会議」が開かれ、国軍は強く反対したものの、軍事行動の中止と、住民の帰還が決議された。そして、5月19日から24日にかけて村人たちは家に帰ることができたのである。しかし、いつまたヘリコプターの音が響くかと、村人たちは今でも恐怖の中で生活している。
スリガオデルスルで行われたこの軍事行動は、地方政府には事前に知らされていなかったという。軍事行動の目的は新人民軍の掃討であると事後に言われているが、この地域で新人民軍と地方政府の衝突は近年は起きておらず、時期の説明がつかない。一方、2004年にアロヨ大統領がこの地域を木材業の地域と宣言しており、また2005年1月に最高裁判決が覆って1995年鉱業法が合法化されて鉱山開発が外国企業に開かれたため、現地では、住民の強制退去と開発の地ならしが目的であったと考えられている。
比経済は対外債務を抱えて危機的で、政府は外国からの外貨呼び込みに躍起になっている。そこで鍵の1つとされているのが1995年鉱業法である。潜在力の高い鉱業を経済成長の原動力にしたいのである。1995年鉱業法は「持続可能な鉱業開発」を掲げ、地域住民保護と開発の促進の両立を建前としている。地方分権の原則や先住民族の権利尊重の原則も含み、それは憲法に反すると鉱業界の抗議を受けた程だが、比政府はそれに対応して先住民族の土地内における鉱業権の権利を認める補則ガイドラインを1998年に作り、既に許可された鉱業権は権利として承認・尊重されることを定めた。また、先住民族の合意書取得の要件を満たすために、反対派の融和や住民の合意獲得のために違法行為や暴力が使われる結果となっている。スリガオデルスルのハンアヤン村では町の議員が買収工作の実態を証言してくれた。開発促進のための税的インセンティブ強化と外資規制緩和は功を奏し、日本を含む多国籍企業による多くの開発申請を呼んでいる。政府は鉱山問題に関わる実態を知りながらそれを容認し、住民の反発を抑えつけるために、鉱山開発の対象地に多くの国軍部隊を駐留させている。その中で政治的殺害や強制失踪が続いているのである。
2005年5月12日、フィリピン合同教会の東北レイテ教区の監督、エジソン・ラプス牧師が殺害された。ラプス牧師は、1995年鉱業法に関する地域会議の準備を進めていた最中であった。
WE21ジャパンは、支援をしてきたベンゲット州が、その2/3の地域を鉱山開発申請対象とされ、環境と住民の生活が脅かされるようになったため、鉱山問題に関する提言活動の支援を行っている(『フィリピン・ベンゲット州 鉱山問題調査報告書』(2007年2月)が最近出された)。ベンゲット州を含むコルディリェラ地方では、2001年から現在までに、前号で言及したホセ・ドートン氏を含めて4人の活動家が殺害され、1名が襲撃を受けて命をとりとめている。
なお、フィリピンのほぼ全域にわたる鉱物資源の調査は、日本のODAによって行われたことも覚えておきたい(1975-77, 1984-89)。
(3) 労働組合の弾圧と政治的殺害
在フィリピンの各国商工会議所が政治的殺害に歯止めをかけるようフィリピン政府に呼びかける異例の共同声明を出した(日本人商工会議所も名前を連ねたが、他の共同声明はそのホームページに掲載しているにも関わらず、この声明は掲載していない。)。それに続いてウォルマート、GAP、ポロ・ラルフローレンなどの米国系衣料品企業も同様な共同声明を出した。
これは、カビテ輸出加工区内の製造を委託している2つの衣料品工場で9月から10月にかけてストライキ中の労働者が警察によって暴行を受けて解散させられる事件が連続して発生して国際的な注目が集まったこと、またカビテ輸出加工区の労働者支援にも力を入れていたフィリピン独立教会のアルベルト・ラメント元首座主教が10月3日に殺害される事件が起きて国内外の教会からの激しい非難が巻き起こったことによる。
カビテ輸出加工区は日本のODAによって作られ、開発支援のモデルケースにされているが、「ノー・ユニオン、ノー・ストライキ」政策が実施されており、労働者は劣悪な住環境、労働条件を強いられている。ラメント主教が運営委員長を務めていた「労働者支援センター」は、厳しい弾圧をかいくぐって労働者の中に入り、労働者の教育や組織化を進めてきた。(詳しくは「"貧しい農民と労働者の司教"アルベルト・ラメント師父の殉教 」参照:http://ncc-j.org/diarypro/archives/175.html)
前記の米国衣料品企業は声明の中で、「私たちは、工場で働き私たちの製品を生産している者は、自由に集まる権利、自分が選んだ団体に加入する権利、不法な妨害を受けずに団体交渉をする権利を持っていると強く信じている。労働者は、物理的な暴力や危害の恐れがない環境で働き、生活をすることができなければならない」と主張している。本来は当然であるべきこれらのことが、わざわざ確認されなければならない実態があるのだ。
フィリピンは、開発体制の集団的労働法を取っており、労働組合の強制登録制度があって未登録組合は違法とされ労働組合としての活動を否定され(1987年労働法典234条)、労働争議の強制仲裁制度を持ち(1987年労働法典263条(g))、労働協約の認証制度を設けている(1987年労働法典231条)。これらによって労働組合の「行動の自由」を実質的に規制して(全労働者に占める組合組織率は約8%)、外資の直接投資を誘致しているのである。さらに、カビテ州では、誘致企業への雇用に紹介状を必要とすることとし、そのときの「私的な」誓約書に労働組合参加とストライキ参加はしないことを書かせて、「産業平和」を実現してきたのである。
それに加えて、日系企業はフィリピントヨタ労組をめぐる紛争に見られるように、団体交渉に不当に応じなかったり、比政府に迅速な解決のための介入を求め、比政府はそれに応えて正当な組合活動を治安問題として物理的暴力で抑える対応を取るという構図がある。そんな中で、政治的殺害が起こっているのである。
(4) 国際的な関心の高まりとフィリピン政府の対応
フィリピンで悪化する人権状況に国際的な関心が高まり始めたのは、ルイシータ大農園の虐殺事件の頃からではないだろうか。私の場合は、たまたまその約1週間後にミンダナオで開催された「いのちのための平和・民衆会議」で、アルベルト・ラメント師父から生々しい現場の証言と共に「マルコスの時代でも、現在ほど公然と国家が民衆を殺戮することはなかった」と聞いて、アロヨ政権下の人権状況に注目するようになった。
2005年1月に入ると、毎日のように誰かが殺害されたという知らせがフィリピンから入るようになった。2月1日、アムネスティ・インターナショナルは、「殺害事件の頻度が2000年以降、年々上がっており、2005年に入って最初の数週間で急に増え、新聞報道によると少なくとも34人が殺されている」と警告した。
急増する政治的殺害を受け、フィリピンの様々な市民団体が海外からも弁護士や活動家を招きながら個々のケースに関する事実調査団を共同で組織し、また国際ジャーナリスト連盟(IFJ)の事実調査団(2005年1月)、世界教会協議会(WCC)の連帯訪問団(2005年7月)、オランダとベルギーの法曹関係者による調査団(IFFM)(2006年6月)、国際小作農連帯訪問団(IPSM)(2006年8月)などが現地に入って報告を出し、アムネスティ・インターナショナルが2006年8月にフィリピンで続く政治的殺害に焦点をあてたレポート(ASA 35/006/2006)を出して国際社会の注意を喚起した。また各国の諸教会や人権団体などによる調査団の派遣(日本キリスト教協議会(NCC)-2006年7月、香港の市民団体合同調査団-2006年7月、カナダの市民団体合同調査団-2006年11月など)、懸念の表明が続いた。
国内外の圧力が高まる中で、アロヨ大統領は、2006年5月13日、「10週間以内に、10件の政治的殺害について立件し、10人の容疑者を逮捕せよ」と命じて、内務自治省に政治的殺害に関する国家警察の働きを統合する特別捜査班ウシッグ(Usig)を設置させた。
2006年7月24日には教書演説で政治的殺害を「最も厳しい言葉で非難」。ただしその演説の直前箇所で、多くの政治的殺害を引き起こした元凶と目されるホビト・パルパラン少将を反乱鎮圧の貢献者として高く賞賛。
さらにアロヨ大統領は2006年8月21日、政治的殺害を調査するメロ委員会を設置した。政治的殺害を引き起こしていると疑われている反乱鎮圧政策の実行組織(国家警察と国軍)に「調査」を命じたり、その責任者に栄誉を与えたりするアロヨ大統領のやり方に批判が高まったため、「独立性の高い」調査機関を設置することで取り組みの公正さをアピールしようとしたのである。
しかし、委員長に任命された元最高裁判事ホセ・メロ氏はアロヨ大統領と親しい間柄と見られていることなどから、メロ委員会は特別捜査班ウシッグと同様に、犠牲者の関係者やカラパタンなどからの協力を得ることに失敗。国家人権委員会の委員長さえも「召還令状」によって証言を求められたことを皮肉り、その姿勢に疑問を表し、国家人権委員会が記録する犠牲者数への質問に対して犠牲者数よりも犠牲者に関する情報に関心を持つべきであると批判した。また、これほど多くの超法規的殺害が起きているにも関わらず誰一人として告訴されていないことを指摘した。
各国政府も公の場で取り上げはじめ、2006年9月、アロヨ大統領の訪欧を機に、欧州連合理事会や欧州各国政府がフィリピンで続く政治的殺害と強制的失踪に対して懸念を表明。フィリピン政府はそれに応え、特に強く懸念を表明したフィンランドとスペイン、および国連人権理事会に対して調査団の派遣を歓迎すると発表した。フィリピン政府が国連人権理事会の「超法規的、即決的あるいは恣意的な処刑に関する特別報告者」の受け入れを認めたのは、欧州連合による説得が大きかったと言われる。
しかし、その発表にもかかわらず、2006年11月17日、カナダの市民団体の合同調査団が中部ルソン地方のヌエヴァ・エシハ州とブラカン州に現地調査に入ろうとしたところ、重装備の国軍兵士たちに妨害を受けたあげく13時間にわたって拘留され、カナダ政府大使館とフィリピンの法曹連合CODALの働きかけによって解放され、調査断念を余儀なくされるという事件が起きた。カナダ大使は各国商工会議所が1週間前に出した共同声明にも触れながら、「アロヨ大統領は国際社会の声に耳を傾けるべきだ」とフィリピン政府に呼びかけた。
2006年12月、安倍首相が日比首脳会談で、麻生外相が日比外相会談において、経済協力に関する協議の文脈で、「左派活動家やジャーナリストに対するいわゆる“政治的殺害”への日本国内での非常に高い関心を伝えた」。これは従来の日本のアジア外交を考えれば「路線転換」ともとれる一歩であった。背景にある動機としては、北朝鮮による日本人拉致問題を契機として「外交における人権の主流化」が政治的課題となっていること、また人権理事会で「すべての人を強制的失踪から保護する条約」案の採択のために熱心に動いた国として一貫性が求められていることなどが考えられよう。ともあれ、日本でほとんど報道もなかったにもかかわらず、「国内に非常に高い関心がある」と言わせたのは、日本キリスト教協議会、アムネスティ、FoE Japanや、在日フィリピン人、関西、中部の有志ネットワークなどによる署名活動、およびアムネスティ議連の議員による国会質問があったからである。
今、2007年5月の総選挙を前に政治的殺害の激化が予想される状況にあって、比政府の行動を「見守ってきた」日本政府は、2006年12月の懸念表明が実のあるものであったことを示すためにも、早急に次の行動を起こすべきであろう。欧州諸国のように比政府の招待を受けていないとはいえ、比政府は外国政府による直接調査を歓迎すると言っているのである。そのためには、メディアを動かし、議員を動かすことが必要である。昨年までに集まった署名は決して多くはなかった(全て合わせても5千筆以下)。それでも大きな変化をもたらす一石となった。不可能と思われようとも、声をあげつづけたい。
☆ 参考になる文献:『グローカルネットワーク~資源開発のジレンマと開発暴力からの脱却を目指して』(栗田英幸・晃洋書房)
☆「ラプス牧師が殺害されて1年 ~ フィリピン教会協議会声明」(2006年5月12日):http://ncc-j.org/diarypro/archives/125.html
☆ フィリピン・トヨタ労組を支援する会 :
http://www.green.dti.ne.jp/protest_toyota/
※ (2)の節は、雑誌『軍縮問題資料』(2006年3月号)に寄稿した記事の一部分をアレンジして再掲しました。